2月21日〜3月4日までハイチからHH4/K2ACを運用した

佐々木さんからADXAへの特別寄稿です。

 

 

ハイチという国

 

JA7KAC/JA1ADT 佐々木公咲
 

(2回連載予定)

皆さんは、カリブ海の島と言えば、白いビーチに高級ホテルが立ち並ぶ優雅なリゾート地をイメージされると思うが、ここハイチだけは異色でアフリカそのものと言っても過言ではない。そして、裕福とは言えないカリブ諸国でも最も貧しい国である。日本外務省は治安を理由にこの国からの退避勧告を実施中だ。ハイチ共和国の地理・歴史はハムという趣味も手伝って既に皆さんご承知のことでしょう。今回は実際の見聞を基にお話しするとしましょう。その前に、そんな危ない国にどうやって行ったかって?

簡単に言えば、米国のミッショングループが行っているボランティア活動に参加して、多勢に無勢で身を守り、ドサクサにまぎれて無線をやろうって魂胆だ。

 

マイアミから首都ポート・オゥ・プリンスまでは約1時間半のフライトだが、フライトアテンダントのお姉さんが回って来て、飛行中ずっと何枚も入国カードを書いている。ハイチ人は文盲がほとんどなので、彼らのために書いてあげているのだ。

イスパニョーラ島の東2/3がドミニカ共和国で、西1/3がハイチ共和国だ。しかし、2002年に訪れた隣国ドミニカ共和国とはまるで違う。山が多く2千m以上の山も少なくない。上空から見た山は地面がむき出しになっており木が全く見当たらない。昔は一面ジャングルだったそうだが、生活に困った人々が木を伐採して売ったり、燃料の炭にしたりした結果、禿山になってしまった。

 

『木を見ることの無い山。無残にもあちこちで土砂崩れが起きている』

 

今でも炭は高価で取引され、ほとんど残っていない木さえも貧困の餌食だ。結果、昨年秋のハリケーンで土石流が発生し何百人もの死者が出た。しかも、その土石流は夜に電気の無い真っ暗闇の街を飲み込んだのだ。一夜明けたその光景は想像を絶する。

着陸態勢に入った機から眼下に見えた家並みはバラックで、フイリピンなどの比ではない。首都の空港周辺ではUN印のジープが目立つ。永く続いている反政府派による暴動で政府組織はほとんど機能していない。このため国連が支援活動を行っている。黒の中に欧米人の白がときおり、しかし私のような黄はめずらしい。たまたま私の前を通りかかったUNの警官は肩にパキスタン国旗を付けており、同じアジアの同胞を見つけた彼は私にヤァと挨拶。

ハイチは、衛生状態が非常に悪いため、マラリアやデング熱など多くの伝染病が発生している。特に、ドミニカ共和国と接する東側の高山地帯に気流を阻まれた首都ポート・オゥ・プリンス周辺は、高温多湿で特に危ない(マラリア予防の薬は今も服用中だ)。我々は、国内線に乗り換え北西部の町ポート・デゥ・ペーへと向かった。と言っても、双発の小さな飛行機のため荷物は陸路運ばれる(この結果、リニアアンプ等の荷物が3日後に到着)。ポート・デゥ・ペーの飛行場はちょっと幅広い1本のまっすぐな田舎の砂利道といった感じで、未舗装の滑走路だ。ターミナルらしき建物など全く見当たらない。飛行機の離着陸が無い時間帯は住民の生活道路に早代わりだ。

『ローカル空港の滑走路は生活道路に早代わり』

 

ここから目的地のミッションの施設までは約10Kmの道程で、乗り合いバスとは聞こえが良いが、単にトラックの荷台に乗るだけだ。道とおぼしき道路は狭く、穴ぼこ、凹凸、浸水、乗っている方も振り落とされないよう一苦労である。途中の風景はと言えば、子供は裸足、どこを見てもごみだらけ、それをあさる豚の姿、炭や食材を積んだロバの行商、露天に並べられた品物は拾ってきたような物ばかり、川では洗濯物が花を開き、その同じ川で生活用水を汲んでいる。ふとトイレのことがよぎったが、考えないよう努力せざるを得ない。いろいろな国を見てきた私だがこの現実を受け入れるのに多少時間を要した。

ミッションは小高い丘の上に位置し、青い海原が眼下に見下ろせ、対岸のトルティ島が正面に見える。周辺や近くの山には、珍しく木があり緑が鮮やかだ。また、海を渡ってくる北東の風が常に涼しく吹き、しばし貧困とは無縁の錯覚に陥る。しかし、それでも遠くで炭焼きの煙が後を立たない。また、海岸にはすばらしく美しい砂浜が存在するはずであったが、海岸線は何とゴミの山でそこにブタや庭鳥が群がり、浜辺で水に手を浸す勇気も出ない。

『美しいビーチのはずが・・・・・・』
 

この地域は電気が無いので太陽と共に生活する。朝が早く、暗いうちから仕事場に着き、日の出と共に仕事が始まる。しかし、日雇いだろうが何だろうが、仕事にありつければ良い方だ。何しろ、仕事が無い、金が無い、食べ物が無い、衣類が無い、学校に行けない等、無い無い尽くしなのだから。

最初の頃はただでさえ時差ぼけで大変だったのに、その睡眠の妨げになった事が二つある。まず、夜半過ぎでも、毎晩あちこちから独特なブゥードゥーの太鼓音楽が聞こえてくる。彼らはいつ寝るのだろう? また、連夜遠くから連鎖反応のように集団で吠えあう犬の声がうるさく、一晩中止むことを知らない。犬の縄張り争いや番犬の勤めのためとは聞こえが良いが、飼い主に似るという犬も、精神的に張り詰めたハイチ人同様彼らもまたそうなのか。温室育ちの日本の犬には到底分るまい。(同行のあるアメリカ人が怒りの余り、ここに散弾銃があれば昨夜間違いなくヤツラをヤッテいた、と)

ハイチ人は陽気で個人個人は非常に友好的である。街ではだれからでもボンジュール(ハイチはフランス語圏)と挨拶される。見かける人はほとんどが若者や子供達だ。

『街』

 

残念ながら、食べ物(栄養状態)や病気(エイズも多い)等の理由から平均寿命は50歳以下であり、女性は17、18歳で母親になる。両親を病気で亡くした孤児や、兄弟が多すぎたり片親で育てられない子供達が後を絶たない。米国の教会が援助しているこのミッションの施設には、学校や病院、孤児のための寄宿舎があり、これらの孤児も受け入れている、周辺地域でも聖地的な存在だ。

 

<次回は、このミッションの施設やボランティア活動に触れる>

 

 

ハイチという国  (続編)

 

JA7KAC/JA1ADT 佐々木公咲
 

(2回連載)

 

今回はミッションの施設やボランティア活動について話すことにする。

 

ここにあるミッション施設は、米国の教会団体がその地域のあまりの貧しさに希望を与えようと1978年に教会を作ったのが始まりだそうだ。最初、辺ぴなこの地域に教会団体のメンバーが人道支援のため訪れた時は悲惨だったそうである。しかも当時はまだ中央とつながる道路が無く、セスナ機で訪れたというのだ。翌年には孤児院を作って男女12人ずつの孤児の面倒をみた。その頃、ハイチは7年にも及ぶ干ばつにみまわれ多数の死者を出し、残された子供の面倒をみる人はいなかったそうだ。これらの孤児達の面倒を見、孤児院の管理運営を行うために米国からそのスタッフを交代で送り込む必要があった。

施設の「バースセンたー」 朝暗いうちから多くの患者が並ぶ

 

やがて、施設は少しずつ拡張され、今では学校や病院があり、地域の児童や患者を受け入れている。

これらの施設の管理運営を行う上でボランティア活動が必要なのであるが、活動に参加のメンバーは医者や看護婦、先生、電気・建築・農業関連従事者、エンジニア、はたまた左官屋からコック、床屋までだれでも役に立つのだ。こうして地域に貢献し、孤児たちを育て教育して行く。最初の24人の孤児たちも立派に成長し、今ではちゃんと仕事を持って地域のリーダー的存在になっている。それ以降同じように毎年ここから巣立っている。そういう彼らが勿論今では施設の大きな力になっていることは言うまでもない。

ミッション設備の増設工事、コンクリートはバケツリレーで屋上に運ばれる。

 

そんな彼らも時々夕食を食べに施設にやってくる。彼らの実家はここであり、母親代わりのMiss Patと世間話をして帰っていくのだ。

Miss Patは施設スタート時にご主人とここを訪れたが、まもなくご主人と死別したため、その後は長く施設に移り住んでいる。そのMiss Patに聞いたところでは、最初の頃お腹を空かした子供に食事をあげ、また貰いに来るようになり、それから食事をあげる代わりに勉強させるところから始まったそうだ。そして、やがて英語ができるようになり、悪いことをそれがなぜ悪いのかを教えるなど、教育するのに本当に根気の要る事だったと。地元の警察官は、国からの給料支払が滞っているため警察を辞めたいという人もいたが、周辺の治安を維持するため、施設が彼らを援助して辞めないようにした事、等、苦労話をいろいろと教えてくれた。彼女は今やだれにでも慕われるお母さんである。

施設のお母さんこと Miss Pat 

 

ここのミッションスクールには多くの児童生徒がかなり遠くから通って来ている。皆、お揃いの制服を着ていてなかなかお似合いだ。勿論授業料など無い。子供たちは勉強熱心で授業中は目を輝かせている。日本から持っていったお土産のお菓子は米国産よりも人気があり、またたく間に無くなった。

病院の診療所は全ての患者を診ており、毎朝暗いうちから多くの患者が受付に並んでいる。多いのは産科や外科だが、歯科もOKだ。以外に多いのは足の治療で、まともな靴も履けない彼らは傷めた傷口から化膿し、手遅れになる場合もあるとか。我々到着の数日前にも足の切断手術があったそうだ。診察に訪れる患者の写真を撮ることは難しい。宗教的な理由か、あるいは大昔の日本人のように魂を吸い取られてしまうと思い込んでいるのか写真に撮られる事を非常に嫌うのだ。

さて、ここになぜ18m高もの立派なタワーが存在するのだろうか。タワーを建柱した十数年前は、まだ今ほど通信環境が整っておらず、しかも辺ぴな所にある施設と米国本土にある教会団体事務所との通信手段は皆無に等しかった。そこで、アマチュア無線を使ってその通信を行ったのである(米国ではフォーンパッチ等で代表されるように第三者通信は違法ではない)。昨年ようやくサテライトを使ったインターネット環境を整備し、また緊急用に衛星電話も準備されている。しかし、我々が滞在していた期間中は全てアマチュア無線使用による定時連絡が行われた。また、施設の一部は遠く離れているため、その間は業務用無線を使って連絡を取っている。ボランティア活動におけるK4QD Janと私の仕事は、潮風にさらされ錆ついたタワーの取替えと、ソーラー・バッテリ設備のメンテナンスが主である。そもそもタワーの錆の原因は貰い錆で、タワーを利用して針金や鉄製のボルトなどを使って何かを付けようとしたためである。かつてここで教育された彼らも錆びにくいステンレスやアルミの知識には疎いのだ。

 ソーラー発電による充電で教会の十字架は点灯され、対岸の島や街のどこからでも見える

 

滞在も終わりに近づいた頃、ボランティアのメンバーと、孤児院で長く過ごしてきた15歳以上の孤児達と夕食を共に食べた。彼らはそろそろ巣立って行く準備をしている子供たちである。最後にメンバー代表のスピーチがあり、子供たちにメンバーと一緒に写真を撮るよう促した。そして曰く、その写真を5年、10年、そして30年後に見なさいと。そして、5年、10年、30年前の自分の状況を思い出し、ここで生活した体験を忘れてはならないし感謝の気持ちを忘れてはならないと。その時、私の隣に座った男の子がそっと私の手を握っていた。 

ある外国の高官が、日本は金を出せば文句あるまいと思っていると言ったことがある。また、新聞に国際協力機構(JICA)は日本の海外協力に対する莫大な予算を任せられているが、アフリカの難民のように本当に助けて欲しい急場の対応には対応できないと書いてあった。その意味がここでは良く理解できる。我が家の日本をとやかく言うつもりはないが、井の中の蛙と言われても仕方がない。干ばつ対策にポンプを買ってあげる。しかし、現地ではポンプを動かすガソリンが買えないのだ。アフリカに日本でも数台しかない最先端の医療機器を送ってあげる。だれがそれを使いこなせるというのだ。現地で最も喜ばれるのは物や金ではない。彼らが必要としているのは実際に現場を見て、彼らが本当に必要としている事柄を認識し、そして手を貸してあげることなのだ。

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